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第2章 第4話 太郎さんがくれたもの
第2章:果たされなかった約束
第4話:太郎さんがくれたもの
緩和ケアチームを交えて話し合うことについて、主治医で循環器内科の田川賢治医師(40)は、患者の家族がどんな反応を示すのか不安だった。だが、長男夫妻は特に抵抗感はないようで快く受け入れてくれた。
面談室には、田川医師、緩和ケアチームの山崎直樹医師(43)と小泉茜看護師(38)、患者の長男である赤村正さん(45)夫妻の計5人が集まった。
まず田川医師が患者の赤村太郎さん(70)の病状を改めて説明した。心臓と足の血管狭窄があり、心停止に陥ったが心肺蘇生で一命を取り留めたこと、ただし現状では改善の見込みはほとんどなく、延命治療を続けている状態にあること。
その後、緩和ケアチームの山崎医師と小泉看護師が話を引き継いだ。2人はしばらく、天気や正夫妻の子供のことなど医療とは関係のない話をした。
そして、山崎医師が「正さんからみて、太郎さんってどんな人でしたか?」と質問した。
正さんは、時々目を閉じて、懐かしむように父太郎さんのことを話してくれた。
太郎さんは証券会社に勤めており、いつもとても忙しそうだった。特にバブルの頃はほとんど家に帰ってくることがなく、正さんとしばしば衝突したという。
大学生のころに登山部に入っていたほど山登りが好きで、最近も年に1~2回は1人で山に出かけていた。几帳面な性格で、今まで登った山については、そこで撮影した写真と共に記録ノートを作っている。先日、そのノートを太郎さんと正さんで見ていた時、正さんが小さい頃によく親子2人で登った由布岳の写真がたくさん出てきた。久しぶりに今年、ミヤマキリシマが見ごろを迎える5月下旬~6月中旬のどこかで、2人で由布岳に登ろうと約束をしていたのだそうだ。
また、太郎さんの妻は4年前にくも膜下出血で亡くなっている。妻が倒れたのは、太郎さんの定年祝いを兼ね、夫妻でヨーロッパ旅行に出発する2日前だったという。
田川医師は太郎さんのことを何も知らなかったことに愕然とした。どんな仕事をしていたのかも、山登りが好きだったことも聞いていない。太郎さんの妻がくも膜下出血で亡くなったことは正さんから伝えられていたが、定年祝いの旅行直前に発症したことは初耳だった。何も言えないまま、山崎医師と小泉看護師が話を進めていくのを聞いているしかなかった。
そして、話はケアのゴールのことに移っていった。
正さんは「母が半年間の闘病の末に体中管だらけになって、意識が戻らずに亡くなったことに後悔があったようです。母さんみたいな死に方はしたくないと言っていました。それから、父は医療のドキュメンタリーやドラマを見るのが好きでした。ストーリーの中で管に繋がれた患者が出てくると、『俺はここまでして生きたくないなぁ』とも話していましたね。『最期はピンピンコロリといきたいわ』なんて」と太郎さんの思いを話した。
結局その時は、ECMO(注)や人工呼吸器を外すかどうかの結論には至らなかった。緩和ケアチームも一緒に治療を考えていくことを約束し、正さん夫妻は帰っていった。
しかしその晩、太郎さんは急激に状態が悪化し、死亡した。
いつの間にか、病院内のカフェは席がほぼ埋まっていた。
田川医師は山崎医師の話に注意深く耳を傾けている。
「赤村さんのような人も、それはかなり少ないですが、いるんですよ。だから、救急現場でもDNAR(do not attempt resuscitation:心肺蘇生を行わないこと)について確認することが重要なんです。ただ、いきなり話すのではなく、まず過去にDNARやACP(Advance Care Planning:終末期医療や介護について話し合うこと)について医療者や代理意思決定者と話し合ったことがあるかどうかを聞いてみてください。そして次に、QOL(生活の質)を踏まえた上で延命が何よりも大切かどうかを確認する必要があります。これがYesであれば、無理やりDNARを推奨しても話は平行線になります。いったんその議論は止めて、まず治療を優先したほうがいいでしょう」
「もし、Noだったら? その時はどんな対応をすべきなのでしょうか」
「DNARを強く勧めるのではなく、まずCPR(心肺蘇生法)とは何なのか、なぜ必要でどれくらい効果が見込め、本人の希望と合致しそうか――について一緒に考えてみてください。そして最後に、決まったことを確認してください。救急外来での本人や家族の決定は変わりやすいことも知られていますので、無理に決める必要はありません。話し方一つで、より患者さんの思いに寄り添った意思決定ができます」
「なるほど――。山崎先生とお話しせずにいたら、赤村さんのこともどうなっていたか分かりませんし、将来的には、自分の医学的予想に従ってDNARを一方的に患者や家族に提示するようなことがあったかもしれません」。田川医師はため息をつきながら小さく首を横に振った。
「私もね、あの時こうやっておけばよかったとか、自分が担当じゃなければもっと良い結果になったんじゃないかと悩むことがあります。自分が無知なために、患者や家族を傷つけることがあるのではないかと怖くなることがあります。でも、自分を責めるだけでは起きてしまったことは変わりませんし、起こるかもしれないことを恐れていたら何もできなくなってしまいます。DNARについて深く考え、知るきっかけを作ってくれた赤村さんに感謝し、前に進むべきなのではないでしょうか」
少しの沈黙の後、田川医師が立ち上がった。「さて、そろそろ行きます。今日は、もう休みなんですよ。帰りがけに登山用品店で登山靴を買おうと思います。次の休みに由布岳に登ってみようかなと。ミヤマキリシマ、咲いてますかね」
(注)ECMO
経皮的補助循環装置。心臓や肺が悪く、全身の血液循環が保たれなかったり、血液に酸素を取り込むこと(酸素化)ができなくなったりした患者に使用する。ボールペンほどの太さ(外径約8mm)のシース(管)を両側の太ももに1本ずつ、または太ももと首に1本ずつ挿入して使用する。血液を体から取り出して人工肺に送り、二酸化炭素を除去した上で酸素を加えて体内に戻す。
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