第2章 第3話 田川医師の本音
心不全患者に、私たちができること―緩和ケアの現場から―

第2章 第3話 田川医師の本音

第2章:果たされなかった約束

第3話:田川医師の本音

A病院では毎朝、ICUチームと循環器チームによるカンファレンスが行われる。
冠動脈の狭窄で心停止に陥り、蘇生措置で一命を取り留めた赤村太郎さん(70)については、「終末期状態であり、治療方針を変更した方がいいのではないか」という声がいくつか上がった。

ただ主治医で循環器内科の田川賢治医師(30)としては、1%でも回復の可能性が残っているのならばそれにかけたいという思いがあった。また、現状への責任を感じており、終末期であることを認めることができなかった。
みんなが考え込む中、ICUチームの看護師から緩和ケアチームへのコンサルテーションについて提案があった。

田川医師は悩んだ末、決して前向きにではなかったが、看護師の提案を受け入れることにした。「早期からの緩和ケア」「非がんの緩和ケア」というものが最近話題になっているのをどこかで耳にしたことがあったのと、状況改善に向けて何かに救いを求めたい気持ちがあるのも、また事実だったからだ。

その日の午後、緩和ケアチームの医師と看護師が田川医師の所にやってきた。医師は山崎直樹、看護師は小泉茜と名乗った。何となく院内で顔を見かけたことがある程度で、ほとんど知らない2人だ。
田川医師は顔をしかめていた。「もし、治療の中止や、麻薬や鎮静薬の投与を提案されたら、きっぱりと断ろう」。そう身構えていた。

まず田川医師から、これまでの状況について説明を行った。ショック状態に陥ったが蘇生に成功したこと、患者本人は家族にDNAR(do not attempt resuscitation:心肺蘇生を行わないこと)を希望すると伝えていたこと、しかし田川医師たちがその希望を知ったのは患者がICUに入室した後だったこと、今は長男夫妻も治療を希望していること、改善の見込みは極めて低いが完全にゼロとはいえないこと――。何かに追い立てられるかのように、一気にしゃべった。

山崎医師と小泉看護師は、じっと田川医師の話を聞いていた。説明が終わると、小泉看護師が「先生、本当によく頑張ってこられたんですね」と優しい声で言った。まさかそんな言葉をかけられるとは思っていなかった田川医師は、驚くと共に目頭が熱くなるのを感じた。何か肩の荷が下り、救われたような気がした。

「私はどうすればいいんですかね」。田川医師の口から、思わず本音がこぼれた。
後は止まらなかった。「本当は、来院時に心臓のことまで疑って、もっとしっかり状態を観察したり、検査を早めたりしておけばよかったと後悔しているんです。いつもはDNARかどうかを最初に確認するのに、この人だけはそれをしなかった。何としても治療したい、DNARと言われたらそれができなくなる。そんな思いが巡っていたんです」
山崎医師と小泉看護師は、相槌を打ちながら真剣な表情で話を聞いていた。山崎医師が言う。「そういう葛藤の中、ここまで治療を続けてこられたんですね」

緩和ケアチームの2人と話しているうちに、田川医師の中から「何としても治療を続ける」という意地のような思いが消えていった。太郎さんにとって何がベストなケアなのかだけを考えるようになった。
「ECMO(注)をいつまで続けるべきなのか。人工呼吸器の設定をこれからも強化していくべきなのか。強心剤はどこまで増量すべきなのか。治療の方針については悩みが尽きません」。そう田川医師が言うと、山崎医師が「赤村さんの『ケアのゴール』についての話し合いって、今まで行いましたか?」と聞いた。

ケアのゴール――。田川医師には聞き馴染みのない言葉だった。
山崎医師が続ける。「救急や集中治療においては、治療手段から治療方法を考えることが一般的だと思います。例えば、挿管という手段を行うのか行わないのかを事前に示すことで、その後の治療方法が決まるということです。一方で緩和ケアが中心になる場合は、患者の嗜好や人生観からゴールを設定するという考え方があります」
「例えば、家族と過ごす時間を何より大切にする患者さんだったら、それがかなえられる環境を整えます。たとえそれが医療的介入を減らさなければならなくなっても、患者さんの意思の尊重を重視します。そのためには、この患者さんがどんな人生を送り、どんなことを好んでいて、どんな人生の閉じ方をしたいのかについて話すことが大切です」と小泉看護師が補足した。

太郎さんは、もう話すことはできない。田川医師は「もっと早く話し合っておけば良かったのですが……」とうなだれた。
「今からでもできることがあります。一緒に長男夫妻からお話を聞いてみましょう」と山崎医師が提案した。

(注)ECMO
経皮的補助循環装置。心臓や肺が悪く、全身の血液循環が保たれなかったり、血液に酸素を取り込むこと(酸素化)ができなくなったりした患者に使用する。ボールペンほどの太さ(外径約8mm)のシース(管)を両側の太ももに1本ずつ、または太ももと首に1本ずつ挿入して使用する。血液を体から取り出して人工肺に送り、二酸化炭素を除去した上で酸素を加えて体内に戻す。

第4話「太郎さんがくれたもの」へ

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