第2章 第1話 過信と思い込みの結果
心不全患者に、私たちができること―緩和ケアの現場から―

第2章 第1話 過信と思い込みの結果

第2章:果たされなかった約束

第1話:過信と思い込みの結果

赤村太郎さん(仮名、70歳)が死亡してから2週間がたった。

5月下旬のある日、赤村さんの主治医だった循環器内科の田川賢治医師(仮名、30歳)は当直を終え、病院内のカフェでコーヒーを飲んでいた。午前9時。すでに午前中の診療が始まっているため院内は多くの人が行き交っているが、カフェはまだ空席が目立つ。

「先生も当直明けですか?」。声をかけられて田川医師が顔を上げると、緩和ケアチームの山崎直樹医師(仮名、45歳)がコーヒーを持って立っていた。
「山崎先生、その節はありがとうございました。今、ちょうど赤村さんのことを思い出していました。どうしても引っかかっちゃって。あの時、DNAR(do not attempt resuscitation:心肺蘇生を行わないこと)をちゃんと確認しておけばと……」
「ちょっとお話をする時間はありますか?」。田川医師がうなずくと、山崎医師は向かいの席に座った。

×     ×     ×

「父さん、今日は暑いぐらいだ。由布岳が山開きだってさ」
九州地方のA病院のICUで、感染防護用のエプロンと手袋を身に付けた赤村正さん(仮名、45歳)が、父の赤村太郎さんに語りかけた。反応はない。
心臓と足の血管狭窄に加え、MRSA肺炎と腎不全を併発した太郎さん。気管挿管され、ECMO(注)が挿入され、口や鼻、首、手、足にはたくさんの管がつなげられている。四肢は採血に伴う内出血で痛々しい。意識はないが、時折眉間にしわを寄せ、苦しそうな表情を浮かべる。
毎日午後3時になると、1日に10分だけ許されている面会のために、長男の正さんは妻と一緒に病院を訪れる。
田川医師は少し離れた所から、正さん夫妻の様子を何とも言えない重い気持ちで見つめていた。

「ぐったりしていて、足の色が悪い」と救急隊から入電があり、太郎さんがA病院に搬送されてきたのは10日前のことだ。下肢閉塞性動脈硬化症が疑われ、循環器急患当番だった田川医師がER(救急救命室)に呼ばれた。

田川医師は1年前に循環器内科の後期研修を終え、今は下肢血管治療の専門研修中だ。現在9例の治療を成功させている。やる気に満ち溢れ、下肢血管治療が必要な急患を待ち望んでいた。

太郎さんを診察すると、ひざの裏の膝窩(しっか)動脈の触れが悪かった。おそらく太ももを通る浅大腿(せんだいたい)動脈が狭窄しているのだろう。顔色は白く、血圧は80~100mmHgと低めで推移していた。ただ、ぐったりしている理由が分からない。全身の状態よりも下肢血管の治療のことで頭がいっぱいだった田川医師は「まあ、足の病変のせいということでいいだろう」と深く考えなかった。

翌日、循環器病棟で太郎さんを担当している新人の女性看護師から、心停止時に心肺蘇生を行うかどうか(治療コード)を確認するよう依頼された。
「何を言っているんだ! これから治療をする患者が、急変時のDNARを希望するわけはないだろう」。田川医師は強い口調で答えた。
「すいません……」。看護師は萎縮した様子で、カルテに「FULL CODE(心肺蘇生を実施する)」と記載した。

足の血管治療を行う前日、その病棟看護師から、太郎さんが10秒ほど意識消失をしたという報告を受けた。何か嫌な予感がした。田川医師の指導医が繰り返し「足は第2の心臓である」と言っていたことを思い出したのだ。足の血管が狭窄している人は心臓の血管も狭窄しているという意味だ。意識消失をしたということは心臓が悪い可能性がある。念のため太郎さんの様子を確認した方がいいと考え、病室に向かおうとした。
ちょうどその時、患者の急変を知らせるハリーコールが鳴り響いた。
「コードブルー。コードブルー。循環器病棟305号室」

田川医師が病室に駆けつけると、そこには心肺蘇生措置を受けている太郎さんの姿があった。
ここにきて全てがつながった。顔色が悪いのも、血圧が低いのも、下肢の色が悪いのも、ぐったりしているのも、心臓に異常があり、それに伴うショックを起こす直前の状態だったからだ。

すぐに心臓カテーテル室に太郎さんを移動させ、太ももの付け根からから親指ほどの太さのあるシース(管)を挿入しECMOを始動させた。足の血管も確かに狭窄はしていたが、心臓はさらに重症で3本の冠動脈はいずれも高度狭窄がみられた。
冠動脈の最低限の治療によって何とか一命を取り留め、太郎さんはICUに入室した。

病院からの連絡を受けて駆け付けた正さん夫妻は、経過、病状、今後の治療についての田川医師からの説明を黙って聞いていた。何か質問がないかと尋ねると、正さんが言った。「実は、父は蘇生措置を希望していなかったんです」

田川医師の心臓がドクンと大きく鳴った。血の気が引くのを感じた。

(注)ECMO
経皮的補助循環装置。心臓や肺が悪く、全身の血液循環が保たれなかったり、血液に酸素を取り込むこと(酸素化)ができなくなったりした患者に使用する。ボールペンほどの太さ(外径約8mm)のシース(管)を両側の太ももに1本ずつ、または太ももと首に1本ずつ挿入して使用する。血液を体から取り出して人工肺に送り、二酸化炭素を除去した上で酸素を加えて体内に戻す。

第2話「太郎さんが望んでいた最期の迎え方」へ

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