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第1章 第2話 胸ポケットの中の「SHARE」
第1章 第2話 胸ポケットの中の「SHARE」
第1章:2人の患者 第2話:胸ポケットの中の「SHARE」 面談当日、小倉医師は病院に到着した春子さんに呼び出された。 「先生、もしよろしければ、私にだけ先に聞かせてくれませんか。主人は悪いんでしょう? もし悪いのなら、本人には話さないでくれませんか。先生の前では強がっていますが、本当は弱い人なんです」。深刻そうな顔をした春子さんが訴える。 ゆっくり大きくうなずいて、小倉医師はこう語りかけた。「そうなんですね。教えてくださり、ありがとうございます。私もできることなら本人には悪い話はしたくないと思っています。ですが、本人も明らかに体調の悪化を自覚しています。病状をとても気にされていますので、きちんとお話しした方がいいと考えました。本人の体調、伝え方や受け止め方に配慮しますので、少しずつお話しさせてもらえませんか」 春子さんはジッと考えた後、「そうですか。分かりました」と小さな声で答えた。 面談で小倉医師は、これまでの病状の経過と今後起こりうることを伝えた上で、緩和ケアについて紹介した。そして将来の悪化を見据え、今後の過ごし方についてACP(医療者や家族と話し合いを行っていくこと)を開始する時期だと説明した。 完治は望めないこと、徐々に寛解と増悪を繰り返すようになること、突然死の可能性があること……。説明を聞いている途中で、春子さんは泣き出してしまった。小倉医師は、春子さんの前にティッシュペーパーの箱をそっと置き、落ち着くのを待った。 約40分の面談が終わった。「よく分かりました。もう少し妻と話し合いたいと思います」。そう言って太郎さんは、春子さんに車椅子を押されて面談室を出て行った。 飯田さん夫婦を見送った後、小倉医師は今の面談を振り返った。悪い知らせを伝える際のスキル「SHARE(※)」に当てはめながら、やり取りを一つ一つ見直していく。 SHAREは、Supportive environment▽How to deliver the bad news▽Additional Information▽Reassurance and emotional support――の頭文字を取っており、悪い知らせを伝える際に医師が実践すべき態度や行動を示している。 小倉医師はSHAREの詳細をメモした紙を、常に胸ポケットに入れている。紙を開いて読み返す。 S:支持的な場の設定。死や予後、告知の話は非常にデリケート。人通りの多い廊下や待合室などで行うのは避け、落ち着いて話せる時間、場所、雰囲気を用意する。また、医師が別件で電話対応をするようなことはしない。患者の家族に時間の余裕がない時に面談を設定することは避ける。患者の体調の良い時間帯を選び、ゆっくり座れたり、横になったりしながら話を聞ける環境を用意する。 H:悪い知らせの伝え方。伝える時の言葉の選び方は非常に重要。まどろっこしい表現は避け、率直に伝えなくてはならない。また、患者と家族が病状の経過を共有できているか、話の内容を理解できているのかについて確認しながら話を進める。 A:付加的な医学情報。その情報が患者や家族にとって必要な情報か。患者や家族が、その情報を受け止められる心理状態にあるのか。医師の説明の場合は、特に注意をしなくてはならない。 RE:安心感と情緒的サポート。患者の感情を受け止め、情緒的なサポートを行う。例えば、患者や家族が説明中に泣き出して「もうこれ以上話を聞きたくない」と言ったとしても、文字通り受け取って説明を切り上げてはいけない。その言葉の裏にある感情を考える。「おつらいですよね」と声をかけたり、ハンカチを渡したりして、気持ちが落ち着くのを待つことも大事なコミュニケーション。 「“今回は”大丈夫だ。太郎さんも春子さんもきちんと理解してくれたはず。冷静に今後の治療方針について話し合えるだろう」 面談室を出て医局に戻りながら、小倉医師は3カ月前に担当した、ある患者のことを思い出していた。 第3話「福山芳雄さんの記憶」へ